どこまでもハッピー ! !  唐人町商店街


唐人町の歴史

history of Tojinmachi
【唐人町の由来】
『続風土記』には『其始高麗人住せり』、『拾遺』には「往古は唐船が泊まりしゆえ、如此名あるよし」と書かれているが唐人が住んでいたかは不詳です。地名は、寛永4年(1627)の『筑前陸後肥前肥後探索書』に初めて記されている。

【黒門は城下への西の出入口】
現在の黒門川通りは昭和63年度に下は暗渠にして川、上は道路にしました。江戸時代にはこの通りが福岡城の外堀で、黒門飴の所に『黒門』(呉門とも言った)があり、福岡城の西の出入口でした『黒門橋』を渡った城下町が今の商店街でした。

【唐人町商店街は唐津街道でした】
江戸時代の唐人町商店街は筑前小倉の常盤橋を起点として赤間~博多~福岡~姪浜~唐津城下に至る130kmの『唐津街道』の通りで、人や物の行き交う大変栄えた重要な街道でした。

商店街にいらした際には、少し足をのばして、歴史に触れてみませんか。

唐神さん

toujinsan
太古より海外との交流の入口として、外敵の侵入を防ぐ 要として、さらに江戸時代には鬼才の軍師といわれる官兵衛が 過ごした地としてゆかりのある唐人町にちなんだ、唐神さんです。 唐人町商店街の「唐神さん」は"闘神"すなわち闘いの神です。 身近には福岡ソフトバンク・ホークスのドーム球場もあり、熱戦が 繰り広げられています。

しかし、「唐神さん」は野球だけでなく、唐人町商店街を訪れる 人々に勝利をもたらしたいと願っています。勝利の中でも、 最も厳しく険しい人生における勝利なのです。勝つというには 相手が要りますが、その相手とは「自分自身」のほかにありません。 誘惑や欲望のまま、努力を怠り、あきらめたり、目標や夢から 遠ざかっている、と気づいた人であれば、「唐神さん」が力を貸して、 やる気を起こしてくれるでしょう。
制作者:博多人形師 中村信喬氏

【プロフィール】
人形師。1957年生まれ。20代に陶芸家・故村田陶苑、人形師・林駒夫(重要無形文化財)、
能面師・北澤一念に師事。太宰府御神忌 一千百年大祭の御神牛・菅原道真公像など、作品・受賞多数。
カピタンをモチーフにした「長崎幻影」は九州国立博物館に収蔵。日本工芸会正会員。
日本工芸会西部支部常任幹事。九州産業大学芸術学部芸術工学学科講師。

唐人町界隈八寺巡り

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江戸時代、福岡藩と唐津藩が参勤交代に使った唐津街道は現在の唐人町商店街アーケードの中を東西に貫いていました。
そこでは街道を行き交う人たちに商売を行う町屋(隣と接した、奥行のある店舗併用の住宅)が自然発生的に発展していったといわれています。
今でも福岡藩が北側の海からの都市防衛に要塞として建立したと見られるお寺が密集しており、新旧合さった不思議な魅力がある町です。
商店街にいらした際には、少し足をのばして、歴史に触れてみませんか。


人物紹介

person historic

【亀井南冥と甘棠館】

亀井南冥(1743~1814年)は江戸時代後期(天命4年、1784年)に開校した「甘棠館」の総裁です。
南冥は筑前国早良郡姪の浜に生まれ、その後、父聴因と共に唐人町に転居(甘棠館近隣に居住)、幼くして詩文を学び、儒学、医学者として藩に登用されます。のちに甘棠館の総裁になってからは多くの人材を養成したそうです。
南冥は他にも漢詩、書画にも優れ、特に「金印辧」が有名です。また西学問所の西側にある善龍寺山門上に掲げてある「瑞雲」の額は南冥の書と言われています。母は「浄満寺」(現在の今川)井浦家の三女で、お寺は南冥一族の菩提寺で、南冥の墓も境内にあり、福岡県文化財に指定されています。
甘棠館は、当時、福岡藩・藩校の西学問所として開校しました。赤坂門には東学問所である「修猷館」があります。西学問所には農、商家の子息が、東学問所には藩士の子息が集まったと言われています。藩に2ヵ所も藩校があったのはめずらしく、全国から多くの若者が集まりました。
甘棠館の場所は、現在ある甘棠館Show劇場から北側の一帯にあったと思われ、今は学問所跡石碑が道路を隔てて北側(旧新星映画劇場跡地)横に残っています。
寛政2年(1790年)の「寛政異学の禁」の幕府発令により、甘棠館は衰退していき、2度の火災で焼失し、ついに廃校になってしまいましたが、南冥の功績は今もこの地で言い伝えられています。

【貝原益軒】

新紀行文学の創始者として親しまれたのは、貝原益軒(1630年~1714年)です。
江戸時代の本草学者であり儒学者で、人間文化(社会、歴史、文芸、政理)を研究し、数十冊に及ぶわかりやすい著書を残しました。「筑前国続風土記」は筑前の全村を歩いて地勢、名所旧跡、社寺仏閣、特産品などを記述したものとして有名です。
心は楽しむべし、苦しむべからず。身は労すべし、やすめ過すべからず。と、心と身体の両面から健康、長寿を保つための心構えを述べている「養生訓」は、益軒83才の時に実体験に基づいて書いたもので、今川2丁目にある金龍寺に碑文が益軒の座像と一緒に残っています。